2019.07.19
言論の自由はどこまで許されるのか ~参議院選挙前に一言~

 日本維新の会の衆議院議員丸山議員(35=大阪19区選出)。「北方領土の解決には戦争が必要だ。」と普段思っていたであろうことを発言、物議を招いた。それは失言などという生易しいものではない。
国会議員の議員辞職をめぐって、「こうした失言で議員辞職勧告をすれば他の議員の失言の際にも影響を与える」と慎重な意見もあったという。
また、当の本人は、議員辞職勧告は「国会での言論の自由を束縛するものだ」と反論する。
今回の発言がどのような重みを持っているのか、当の本人はもとより、安倍内閣にも自民党にも、公明党にも、そして維新の会にも、発言の重みを理解していない議員の多さに驚く。

 立憲民主党など野党6党派が共同提出した辞職勧告案に同調しない理由について、自民党の森山裕国対委員長は記者団に「発言が対象になることは慎重であるべきだ」と説明し、「けん責案」にとどめた対策を決めた。その理由としては、【過去の辞職勧告決議は主に刑事責任を問われた議員が対象で、与党内には、丸山氏の発言が前例となれば、失言のたびに与野党が辞職を求め合い、「きりがなくなる」(自民党幹部)との懸念がある。】(5月20日・JIJI.COM)という。
加えて、自民党の二階幹事長は記者の質問に答えて、【今後は波風が立たないよう各人が肝に銘じておくべきだ】(自民党・二階幹事長)という。
 さらに興味がわくのが、「保守層の中でナチスを擁護し、日本の無謀な太平洋戦争に反省を見せない人々が、どのように反論するのか」である。案の定、ナチスを擁護し続けている高須クリニックの高須克弥院長(74)は16日、自身のツイッターで次のように述べている。
「国民に選ばれた国会議員に対する辞職勧告は間違っていると思います。審判を下すのは選挙民です」

 はっきりしていることは、一様に今回の発言を「失言」ととらえていることである。失言だから従来と同様、「撤回と謝罪」で一件落着で事を収めることができると考えているようだ。

 先の第二次世界大戦は、私たちに多くの教訓を与えてくれた。
ナチスを生み、ユダヤ人の大虐殺を繰り返したドイツでは徹底した反省が行われている。その反省があるからこそ、戦後のドイツへの評価が高まったのである。

 ドイツは、ヨーロッパの民主主義の理念、「戦う民主主義」を憲法の中に明記している。戦う民主主義とは、「民主主義を否定する自由・権利までは認めない民主主義」のことである。

 戦う民主主義とは次のような考え方に立っている。
ドイツ連邦共和国基本法では、「戦う民主主義」の根本理念である「国民の憲法擁護義務」が定められている。さらに徹底しているのは、【ナチ党またはアドルフ・ヒトラー個人、若しくはその行為を礼賛し差別を煽るあらゆる主張・行為は処罰される】(刑法第130条:民衆扇動法)と定め、【ナチスの標章であるハーケンクロイツ(注・卍(まんじ)印)は、反ナチ表現とナチス時代を描写するのに必要な場合を除いて、あらゆる使用が禁止されている。従って、出版等においてもハーケンクロイツの使用は認められず、ネオナチがハーケンクロイツを掲げて行進するようなことも禁止されている。】
このように、ナチスの犯した罪に対して、徹底した反省の上に立って新しい憲法を制定しているのである。

 こうしたドイツの考え方が国際的にも高く評価され、ドイツが二度とナチスを生むような政治や社会にはならないことを世界中が信じているのだ。
世界から見て日本は「戦争の反省から平和国家の道」を歩むと信じられてきた。憲法9条によって戦争放棄を定めているからである。今回の丸山議員の発言はその憲法9条を否定しているから問題になるのである。「議員は憲法を擁護する義務」を負っているのにである。
もともと社会における言論の自由には一定の枠がはめられて認められている。
自由はいつの時代も保障されているものではない。国民が努力を怠った瞬間に瓦解してしまう脆いものなのだ。
ここに完全な自由を保障する国・社会があったとしよう。この国では、何をしても良い、まったくの無制限に自由が保障されている。「こういうことをしてはいけない」という法律も倫理も無い。自分が気に入らなければ他人の命を奪うことも傷つけても良いし、他人の財産を略奪しても良い。なにごとも自由に振舞えるのだ。
こうしたまったく制限の無い「完全に自由な社会」は、結局は、力ずくで自らの意志を押し通す人と、同じく常識を無視できる人など、「暴力と良識の無い人々が自由」を謳歌し、「力も無く、大多数の常識的な人々は、暴力に服従し不自由な生活」に甘んじるのである。
そこで歴史の叡智は、「大多数の人々」に自由を保障するために、法律や常識・倫理を定めて「少数の問題者を不自由にした」のである。自由という制度の意義を理解すれば、自由な制度を守るために法律を守り、道徳などを尊重しなければならないのだ。

 さらに「自由とは、自由を否定する自由まで認めるのか」という命題がついて回る。「何でも自由」にして、結局は独裁政党が政権をもぎ取って全体主義になって「自由が否定されてしまう」ことを容認するのか、否かという問いである。
かつてドイツ・ナチは自由な選挙で多数を制した後に独裁政治への道を歩んで行く。戦前の日本もそうだ。国際的に孤立し国際連盟を脱退して帰国した外相を、熱狂的な提灯行列で歓迎したのは情報統制下の国民そのものなのだ。まさに今の北朝鮮と同じだ。
歴史を反省して、国民が「自由を否定する自由までは認めない」のであれば、社会全体でそのような自由は制限し、かつ意図的に表に出していない「自由を否定する自由」を抱く政党は排斥されなければならないことになる。
しかし日本は、ドイツ・イタリアのような【自由な民主的基本という秩序に反する政党や結社を違憲として禁止する】ことを定めていないという説がある。「自由な民主的基本秩序に反する」か否かを判断するのは国家だから、国民の活動の是非を国家の側が判断することを認めていないからだという。立憲主義とは、国家の行き過ぎた行為を縛るのが主な目的であるから、「国家の判断を優先する」のは沿わないという考え方である。
そうした考え方に立って日本国憲法は定められたという説である。「自由の敵にも自由を認める」ことで、国民の権利が不当の侵害される可能性を無くそうという思想の表れであると解釈されている。

 このようにさまざまな解釈がされる状況においても、日本の平和国家を否定する今回の発言を失言とか言論の自由の範囲とかで片付けるとすれば、日本は、国際的にも評価を下げるどころか、日本の国への不信をもとより、日本国民への大いなる侮辱となってしまう。
「日本は第二次世界大戦を反省していない戦争を肯定する国だ。しかも国会議員に選出されていて、辞職させることもできない国」ということが国際的に認知されるのだ。
それにしてもなぜ戦争などという発想が生まれるのだろうか。どうも第二次世界大戦の反省が曖昧だからであるようだ。
ドイツに比べて曖昧な反省しかしない日本だからこそ、前述したような、単なる失言ととらえる発想となってしまうのだ。そこには戦争は正しかったという思いがあるからなのである。

 仕事でも家庭生活でも、過ちを犯したときには徹底した反省をしたうえで、二度と過ちを繰り返さないという決意と覚悟が必要なのだ。しかし「過ち」と認めていなければ反省には結びつかない。

 その意味で、今回の丸山穂高衆院議員の発言を、曖昧な処理で済ませたとすれば、国際的に、日本国民は「再び戦争を欲している」と誤解され、それこそ国益を損なう重大な問題と見なければならない。

 しかし、先の「第二次世界大戦はやむを得なかった戦争だ」と考えている人にとっては、当然のように「個人的責任」の範疇で処理してもよいと思っている。

 憲法により「紛争処理に戦力を行使しない」ことを定め、世界に誇る日本の平和憲法を踏みにじり、世界中に「大いなる誤解」を与えてしまった今回の発言に対し、日本の国民がどのような対応をするのか、今それが問われているのである。それらに意思表示する参議院選挙はもう目の前に来ている。

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