2019.11.21
労働が持つ二面性を考える

 私たちは、労働によって賃金を得、生活を営んでいる。俗に言うサラリーマンである。学校を卒業し、会社に入社するわけだが、当然のように会社で働くことで賃金という収入を得て、生活に資する。
 現在の資本主義社会が誕生し、資本を有する者が会社を興したとき、当然のように事業を行うために従業員を雇う。工場や材料などの生産要素をそろえただけでは事業は成り立たない。従業員が働かなければならないのだ。従業員は当然のように人間だから、他の生産要素である建物や材料と違って、人間ゆえの特性がある。
 人間は生きていかなければならない。それは生活することを意味する。生活には「お金」が必要になる。生きていくための最低限のお金(賃金)が保障されなければならない。人を雇う以上、最低限の賃金を払わなければならないのだ。それを最低賃金として法律で定めたのが「最低賃金法」なのだ。
 極論すれば、「最低賃金」を払えないような経営者は、その国で事業を営む資格はないということになる。だから最低賃金こそが、労働組合(とくにナショナルセンター)にとって、最も大事な運動に位置付けられるのだ。国内で事業を営む以上、「最低賃金は払わなければならない賃金」。つまり最低賃金すら払えないような企業は認められないということと同じなのである。
 それだけ規制力を持っている最低賃金だからこそ、ただ闇雲に「高ければいい」というだけでは過ちを犯しかねない。最低賃金すら払えない企業は倒産も止む無しということだから、非常識な水準になれば、倒産による失業者が増大してしまう。
 一方で、経営努力を怠り、「最低賃金すら払えない」と言い、あるいは人件費を下げることでしか業績を上げることが出来ない経営者も出てくる。それをさせないために法律で定めているのである。
 この両者の関係をうまく調整していかなければならないから、最低賃金を決めるために公・労・使三者による会議が定められているのだ。この三者会議が深更にまで及ぶことが多いのは、こうした調整が難しいからなのだ。
 さて国としての最低賃金が定められている中で、労働組合が考えなければならないのは、人間である以上、よりよい生活を求めて最低賃金を上回る賃金水準を求めていかなければならないことである。
 なぜ人間はより高い生活水準を求めるのか。それは生活水準の向上によって、人としてあるべき精神的充足を求めているからである。
 人は生活水準によって精神的充足を求める度合いが違ってくる。日々の食料にも事欠くときに、「精神的充足は」と声を荒げても、そんなことより「今日のパンを」と思う。つまり精神的充足とは、ある程度の生活をすることで生まれてくる欲求なのである。そのために「賃金のアップ」を求めて活動をする。「賃上げ論」の有力な要素である。
 日々の生活はこの賃金収入がないと成り立たないのだが、人間とは不思議な生き物で、会社の労働に対しても、ただ働いていればいいということでは満足しないのだ。
 会社の中で、自分の存在が実感でき、自分が他者のためにどれだけ役に立っているのか、あるいは仕事を通じて自分の役割を認識できる、そうした精神的なものを求めている。それは社会生活でも同じだ。
 アメリカの精神学者マズローが言う、生きるという本能の欲求から、自分の存在を認識できる欲求、「他者が求める自分が居るという自覚」が持てる欲求、そんな関係を求めるようになるのだ。
 本人の能力か、あるいは偶然の結果なのか、どちらにしても財をなした時に、その財を誇らしげに人に見せびらかすのは精神的充足とは無縁な行いだ。むしろ自分を貶めていることに気がつかなければならない。
 社会生活では精神的充足は「生き甲斐」と呼ばれる。同じく会社内では「働き甲斐」と呼ばれるものである。厳密にいえば、両者は表裏一体のものであるが......。
 社会生活では「生き甲斐」を求め、会社内の仕事では「働き甲斐」を求める。そうした生き方は、ある水準の生活がなければ生まれてこない。だから労働組合の「賃上げ」は、永久に続くことになる。そして、その時々の経済や企業の状況に応じて、労使が適切な妥協点を見出していくのだ。
 こうなると、賃金の持つ二面性、経済的意義と精神的意義は、別々のようでありながら一つのものと言えてしまう。表裏一体といわれる所以(ゆえん)だ。
 はたして私たちは、賃金の経済的義と精神的意義を自覚して運動を進めてきただろうか。
 翻って企業経営を預かる側は、仕事の進め方にもさまざまな工夫を取り入れてきた。目標管理一つとっても、グループで目標や具体的な施策を話し合うことによって、参加した従業員は一人ひとりが、「自分の考えを聞いてくれた」、「自分の意見を採り入れてくれた」と、自分の存在が確認されたことに充足感を抱く。結果も大事だが、その過程における従業員の存在感の確認に、目標管理論の神髄が隠されていたように思える。
 近年の労働組合の活動にも、こうした意義を感じることが散見される。組合の研修会一つとっても、講師が喋るだけの座学方式のほかに、グル-プ討論が増えてきた。その討論方式も、めいめいが好き勝手にしゃべるだけでなく、ある命題に対して自由に発言し、発言内容をまとめ、また意見を交わす。こうしてグループの討論内容を発表し、今度は全体で再び意見を交わしてまとめていく。その過程で培われる、組合員一人ひとりの存在感、満足感、参加意識がある。
 グループ討論と名は同じでも、そこにはさまざまな改良が施されている。その改良は、すべて参加意識の醸成に集約されているといってもいいと思える。
 好むと好まざるとにかかわらず、今や組合員一人ひとりの精神的充足を得なければ組合運動は成り立たないのだ。
 この視点に立てば、春の賃上げの在り方も、その他の労働環境の改善の在り方もおのずからそのあり様を変化させていかなければならない。
 こぶしを突き上げるだけの闘争はもう限界を過ぎている。組合員一人ひとりの生活における問題点を洗い出し、それらを基に一人一人が考え意見を出し合う。
 ラグビーで有名になり流行語にもなった「一人は皆のために・皆は一人のために」は、もともと労働組合運動でも多く使われてきた言葉だ。労働組合の共済活動しかり、「自分さえよければいい」を排さなければならない。一方で、組合員が一つにまとまっては困ると考える人々・団体もある。
 2020年春闘は、改めて「一人は皆のために・皆は一人のために」を自覚する活動にしていかなければならない。組合活動に対する無関心層が増えてきたという声も聞こえる。でもちょっと考えてみよう。無関心とはどのようなものなのか。
「今の自分の処遇に満足しているから現状に何の不満もない」「組合にかかわるのが面倒くさい」「労働組合は嫌いだ」etc...
何の不足も感じない現状こそが、実は、営々と続いてきた労働運動の先輩たちが築いた結晶なのである。労働運動の積み重ねの成果の上の生活に甘んじているのに、その成果を作りあげた労働組合を否定するのは、まさしく天に唾する所業でもあるのだ。
組合員一人ひとりが「甲斐」を感じる運動をどのように構築するのか。2020年闘争はその出発点にしなければならない。

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