2019.12.02
日本の労組が企業別組合になった本質―栗田健の企業別組合論(上)

組合役員の皆さんが、「組合員の組合離れ」にどのように対処するかを考える際に、尾高邦雄の「組合員の二重帰属意識」を踏まえることの大切さを、先月まで3回連続して述べてきました。
この問題を考えるとき、栗田健の「企業別組合論」を併せて押さえておくことも重要である、と筆者は考えています。
そこで、今月から2回にわたって、栗田健の「企業別組合論」を紹介したいと思います。

栗田健(1994)では、「職制を含めた従業員相互の利害関係を組合内部で調整できない組合活動は、発展の展望を持つことができない」(198頁)だけでなく、「労働組合運動は、そこで働く労働者のための運動であり、その労働者たちが必ずしも組合を離脱するような、労働組合運動と労働者の行動様式との間のズレは、労働組合が未だ日本の労働者を本質的な意味で組織し得ていないことを示している」(198頁)と述べています。
これを私なりに解説すると、日本の労働組合が企業別組合たることを必然としたのは、労働組合が取り組む課題を賃金や労働時間や福利厚生などの問題に限定しないで、働くことの意義や価値にまで言及する労使関係の形成を図ってきたからであり、この企業別組合の「先鋭性」を踏まえた組合活動になっていないために、組合員の組合離れが生まれている、というものです。

さらに、栗田健(1984)によれば、「企業社会の中で貫かれる原理もまた労働者が培ってきた労働者の行動様式であり、思考であると考えておかなければならない」(11頁)ものであり、その行動様式とは何かと言うと、「日本の労働者というのは下層社会の存在である。......だから、どうしても上昇したい。これが日本の労働者の心情であり、行動様式であり、また運動であった。......言い換えるならば、日本の労働者は、労働者でなくなるための運動をやってきた」(10頁)とも述べています。
栗田の指摘する日本の労働者の心情は、ポール・ウィリス(1985)が紹介するイギリスの労働者の「"奴ら"と"俺たち"」の心情とは全く違うものです。
そればかりか、「ある種の実力主義......その人の実力に見合った待遇が与えられるのがフェアである、正義である、......その代わり、労働者の間で競争することはやむを得ないし、むしろあって然るべきことである。......恐らく明治末期からずっと日本の労働者の心の中に巣くってきたものの考え方であろう」(10~11頁)とも指摘しています。

このような労働者の行動様式への推察は栗田だけではありません。石田光男(2003)も「同僚よりも少しでも多くの昇給をとか、同僚よりも少しでも早い出世を、といった個人主義的な取引に流れることを組合は掣肘できない」(199頁)、「つまり、労働力の個別的取引という労働組合にとっての『致命的』『自己否定的』困難は、戦後日本社会の風土にあっては、いわば必然的な困難であった」(201頁)と分析している。
栗田は「その結果としては、管理者と管理される人間、従業員との関係においても、非常に深い同質性が貫かれている」(12頁)と推察しています。

次いで栗田健(1994)では、日本の企業別組合を、「従業員集団を総体として代表して来たからこそ大きな交渉力を確保し得ているのであり、管理職を含めた従業員全体を組織することなしには安定した組織基盤は確保できない」(149頁)と規定しています。
そればかりか栗田は、「組合役員の役割は、労働者の利益を拡大する条件があれば積極的にその問題を提起し、労働者の意識をかきたて、それを組織化すると同時に、労働組合の交渉力の限界を考慮して、労働者の要求を与えられた客観的な条件に合わせて抑制し、闘争を無事に収拾することにある。組合役員に求められる資質は、もはや労働運動の指導者としてのイデオロギー的強靭さやカリスマ性ではなく、企業内における労使の利害関係のバランスを測る能力や、それを的確に表現する能力になったと言える。彼らの役割にとって情報ルートや意思疎通の人脈は重要な武器となり得るために、それを蓄積することが組合役員にとって重要な課題になった」(187頁)と指摘しています。

参考文献
・石田光男(2003)『仕事の社会科学』ミネルヴァ書房
・栗田健(1984)「企業別組合の機能とその基盤」法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』No.306
・栗田健(1994)『日本の労働社会』東京大学出版会
・ポール・ウィリス(1985)『ハマータウンの野郎ども:学校への反抗・労働への順応』熊沢誠・山田潤訳、筑摩書房

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