2020.03.21
政治に関係ないと言っても必ず巻き込まれる

 政治とは、国民という集団の力を使って、貧困をなくし、人々の生活を向上させ、国の平和を安定させるためにある。そのためには強力な中央集権の権力が必要になる。その背景に国民の意思を代弁する議会があるのは当然で、民主主義国家である証明は多数決を基にした議会制度にある。

 この民主主義とは実に微妙で、たとえば議会の多数決一つとってもさまざまな見方ができる。

 その微妙な民主主義のシステムは、国民を「政治に関係ない」と思わせて、実際はそのシステムの中で権力者の側に都合のいいように利用させることもできる。

 ある方針を決める際に、議長が「異議ありませんか」と問う。黙っていれば「異議なし」と扱われ賛成したものとみなされる。選挙も同じだ。投票しない棄権という行為は、会議での「異議なし」の沈黙と同じだから、賛成と同様に扱われる。この場合、賛成と同様ということは、得票順にきめられた当選者に投票したことと同じになる。なぜなら、当選者に異議を唱えるなら、他の候補者に投票しなければならないからである。棄権は投票しないので、多数を獲得した候補者への投票と同様の扱いになるのである。

 「政治に関係ない」と主張する人々は、多数の票を獲得した当選者に異議を述べてはいない。当選者に異議を述べない(他の候補者に投票しない)ことは、多数を獲得した当選者を支持したことと同じ扱いになるのだ。

 すなわち見方を変えれば、棄権は多数の意思に盲目的に従う極めて政治的な行為になってしまうのだ。

 そうしたシステムが民主主義であり、多数決原理の根本になっている。多数決制の民主主義がいつも絶対的に正しいことを決めるとは限らない。民主主義の元祖ともいうべき古代ギリシャのアテネにおいて、クレイステネスの改革(紀元前508年)呼ばれた制度がある。この制度は、【好ましからざる人物を裁判によらずに貝殻や陶片に名を書いて民衆(デモス)が投票することにより、10年間(のちに5年間)は国外に追放するという方法であった。この「貝殻追放」の制度はやがて民衆扇動家(デマゴーグ=民衆+指導者)の悪用するところとなり、古代ギリシャの民主制は衆愚政治へと堕落し、滅亡への道を辿ることとなる。】(「諸君!」1984年3月号、1984年の「朝日新聞」 香山健一)

 「貝殻によって国外に追放する」制度が、現在の衆愚政治をもたらしたというのは早計かもしれないが、歴史的に見ても衆愚政治は国民の無関心、あるいはリーダーの悪用によって生まれる。本来の民主主義は、こうした過ちを生まないためにリーダーは少数意見にも耳を傾けるよう促してきた。しかし権力者にとっては、少数意見に耳を傾けるのは面倒くさいもののようだ。自分の考えが絶対的に正しいと信じているために、それに反対する少数意見は過ちであると考えてしまうからである。多数決制度がそれを助長する。

 議会の多数さえ制していれば物事はすべて望み通りに決められる。少数意見を無視しても議会はそれを支持してくれる。

 ただし、少数意見に耳を傾けなければ権力の座から退かざるを得ないというときだけ耳を傾ける。そうしなければ今の権力が維持できないとわかっているからである。

 もともと民主主義は、権力者が少数意見に耳を傾けることによって成り立つ。権力者という者は、いつも絶対的に正しいとは限らないからである。間違えることがあるからである。

 そこに賢明なリーダーの姿勢が反映される。賢明なリーダーは絶えず自分の意見が正しいか否かを心の中で問い続けながら努力する。しかし人間は時に浅ましいほどに自惚(うぬぼ)れを持つ。少数意見に耳を傾けるのは面倒くさいから、自惚れた自分に酔い耳をふさいでしまう。

 それを手助けするのが、無関心層である。多数決の際に見られる異議を唱えずに沈黙する人々だ。
無関心層は選挙の際には当然のように棄権する。棄権は他の人たちが選んだ当選者を支持するのと同じだから、当選者にとって棄権は歓迎すべきことになる。

 こうして権力者は引き続き権力の座に座っていられる。無関心層が増えれば増えるほど、権力者にとっては歓迎する事態ということになる。

 このように、「政治に興味がない」とか、あるいは「政治は嫌いだ」という人々は、自分の意思にかかわらず、政治の網に取り込まれていることに気付かなければならない。

 政治とはまことに難しい仕組みになっている。政治に関係ないといくら言ったところで、政治に巻き込まれるようになっているのだ。

 政治に無関心であること、政治が嫌いであること、それが権力者の思いのままの政治の網に取り込まれている現実。

 今の日本の政治には二つの大きな問題がある。ひとつが、少数意見に耳を傾けない民主主義の根幹を揺るがす状況にあることだ。これは、議会の多数を握ってさえいれば、何事も思うがままになるからなのだが、たとえ多数を握っていても、リーダーたるもの姿勢が賢明であれば異論にも耳を傾けるはずである。その姿勢がないことが第一の問題なのである。つまり、民主主義の土台が崩壊してしまっているのである。

 昨年(2019年)後半に国会で問題になった安倍首相による「桜を見る会」の私物化。その過程で明らかになった公文書(招待者名簿)の破棄は、政治を「後世の歴史が検証する」という、民主主義の根幹をなす手立てである資料さえ闇に葬ってしまったのである。議会がそれを傍観しているのも、多数を制しているからできる暴挙なのである。

 さらに、マルチ商法で多数の被害者を出して破綻した「ジャパンライフ」の会長まで招待していたことが明らかにされた。その招待状を「国民をだます」マルチ商法に使っていたことも明らかにされた。

 その捜査にも手心を加えていたという政権とマルチ商法の黒い関係は、もし事実だとすれば大きな衝撃だ。【消費者庁が2014年に政治的影響を懸念して立ち入り検査の判断を先延ばししていた可能性があることが2日分かった。

 野党は先送りの結果、同社元会長に15年4月の安倍晋三首相主催「桜を見る会」招待状が送られ、被害が拡大したとみている。

 共産党の大門美紀史参院議員が2日の桜を見る会に関する野党追及本部に、政府の内部資料とされる14年7月31日付文書を提示した。それによると、今後の同社への対処方針を話し合った会議録に、「本件の特異性」「要回収」「政治的背景による余波懸念」などと記された文書が添付されていた】(「時事通信」2019年12月2日)。

 第二の問題点は、同一組織内にリーダーを諌(いさ)める、あるいは諌めることで、少しでも過ちを犯させないようにする動きが出てこないことだ。人は過ちを犯しがちである。もし過ちを犯したとき、いち早くそれに気付きリーダーを諌めることができれば、その被害を最小限にとどめることができる。それが個人はもとより団体や組織の自浄努力といわれるものなのだが、それさえも出来なくなっていることに唖然とするしかない。

 こんな日本の現状の中で、他人のことはともかくせめて自分くらいは、黙って政治の網に取り込まれることのないよう心を新たにし、そのときは声を大にして自分の意思を明らかにしようと思う毎日である。

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