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2020.11.02
偽りなき能力主義を追求すべき時代が来た(下)

石田光男(1990)『賃金の社会科学』中央経済社に示されている、労働組合に対する忠告を今月も紹介します。

現実の職場には労働者の不平や鬱屈が存在する。そこは労働組合主義の棲息する根拠地であるものの、欧米型の労働組合主義は、職場での不平不満を労働者自らが労働者同士の反競争の原理で解決しようとした。しかし、日本においては、そのように呼びかけると、呼びかけられた当の労働者達が当惑するという状況が生まれている、と石田氏は述べています。
それは、欧米のブルーカラーの労働組合運動では人事考課・査定を拒否するのが当然で、人事考課・査定は労働者間の団結を妨害するものであるし、アンフェアだと捉えるのに対して、日本のブルーカラー労働者は人事考課・査定を受け入れ、それが経営側による差別支配なのだとは考えもしないし、むしろ「能力」の違いを認め賃金に反映して欲しい、と考えること。
ましてや、経営側の「能力主義」管理の理念が、企業における経済合理性と人間尊重の調和という、社会主義にとってはむしろ比類なく豊穣であったら、なおさらであると石田氏は指摘し、また、日本の戦後史は、この証明の歴史(階級闘争路線の敗北の歴史:筆者注釈)であったこと。
―などを指摘しています。

さらに、石田氏の『賃金の社会科学』での労働組合に対する鋭い指摘は続きます。
日本的労使関係のルールとしての「能力主義」。それは、日本の労働者が抱いている能力観が、単に仕事ができるだけでなく、ましてや大学をでているということではなく、その人の職務に対する態度姿勢、接する人々への態度姿勢の具体的あり方を確実に含んだ、もはやcapabilityとしての「能力」というよりも「人柄」とか「人格」の良さ高さとでもいうべき能力観であること。
また、労働者自身がそのような能力の評価に期待を寄せていること。
それを言い換えると、普通の労働者の心情に肉薄していたのは企業の側であって、労働組合の側(具体的には総評運動)ではなかった。組合側は労働者の意向から遊離していた、と指摘しています。
日本の勤労者の培ってきた公平観と、仲間の競争制限を原理とする本来の(欧米の)労働組合主義とが重なり切らないという冷厳な事実がある、というのです。
このように石田氏は、組織率低下や組合員の組合離れが、執行部の労働組合観と一般労働者の労働組合観との間にギャップが発生している、ことに原因があると見なしていると解釈してよいでしょう。

以上のような石田氏の論旨に批判もあることも事実です。
栗田健(1988)「日本における労働者の価値観と行動様式」明治大学社会科学研究所紀要『経済論集』第27巻第1号では、次のような批判が展開されます。
「労働者が能力に対する評価を期待していることと、経営者が労働者の能力に対する評価の用意を整えていることが明らかになったとしても、その能力の内容が同じであるという保障はどこにも与えられてはいない。」
この批判に対して石田氏は、民間主要企業の労使関係を眺めたとき、対抗性を自明の前提にできる人は、資本主義の労使関係の一般的な原理(マルクス主義的解釈:筆者注釈)をよほど深く信奉しているに違いない、と皮肉を込めて反論します。
さらに、栗田氏自身の論旨の中で、経営の提唱した「能力主義」がその理念としては抗弁しがたい質をもっており、そうした質に少なくとも親和的な労働者が少なからざる厚みを持って存在していたことを認めていたではないか、と反論しています。
そして、その質とは、「何人も学歴や年功にとらわれることなく能力に応じて平等」であり、日本の労働組合は「組合らしさ」とは何かとの根源的な問いに、遂に明確な答えを用意できないままに今日に至っている、と指摘しています。

日本の労働組合の可能性に対する石田氏の指摘は明確です。私も共感と納得を覚えるところですが、それは、理念としての"能力主義"は善である。だから、労働組合は、まだまだまやかしの"能力主義"を偽りのない"能力主義"にせよという運動を展開せよ、というものです。
この主張を言い換えると、日本の労働組合が運動理念を失い、便宜的なチェック・アンド・バランスで物事に対処して久しい。人はこれを脱イデオロギー、現実主義とみてきたが、理念なき運動は悪しき便宜主義へと堕落する、との主張です。

そして、石田氏は『賃金の社会科学』で次のようにまとめます。長くなりますが、とても重要な指摘なのであえて紹介します。
「日本の労使関係の土台それ自体、すでに平等主義的な職場規制や平等主義的な政治的主張を許さないところにずれ込んできている。だから、労働の世界の風化現象の下で自閉的に『生活の探求』に追いやられている。
企業の内と外で、まやかしの多い実態としての"能力主義"を撃つという意味で、真実に貫徹させることが、21世紀の日本の労使関係の帰趨を展望するうえで避けられない論点である。
人事考課の着眼点の中心は、実際の担当の仕事の遂行振りを通じてみた本人の能力の評定である。この面の公平性を確保するために組合は、これまで多少とも取り組んできたことであろうが、一層自覚的に労使の討議にのせていく努力が必要であろう。
日本における産業民主主義の徹底。その徹底の道筋は欧米の組合運動のような平等主義的職務規制を根元的動因とした道筋とは違ったものにならざるをえない。この未だ何人も描くことができていない道筋を模索するために、労働組合は自らの今日までの行動の真実の原理を虚心にふりかえりみることが必要となっている。」

危機の時代の組合リーダーは、組合員・労働者の要求に応えるべく既存の組合活動(集団的労使関係での集権的組合活動)を必至で頑張るのではなく、組合活動の向かうべき方向(個別的労使関係での分権的組合活動)を指し示すこと。それが「偽りなき能力主義の追求」なのです。
そして、筆者なりの具体的な「偽りなき能力主義の追求」を述べるならば、組合員一人ひとりの個別的労使交渉から、組合の職場リーダー等に導かれたインフォーマルな自律的作業集団による、業績管理におけるPDCAサイクルへの積極的・主体的な経営参加までの、職場での組合活動(自律的・当事者型活動)です。
言い換えると、自分たちに深くかかわることを決定するときに、自分たちもしっかりと発言する、という組合活動です。

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