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2021.09.07
労使関係論では個別的労使関係をどのように扱ってきたのか(上)

今月(9月号)と来月(10月号)は、これまでの日本の労使関係論において、個別的労使関係が、日本の労使関係の中でどのように説明されてきたのか、について取り上げたいと思います。

まず結論から述べると、日本の労使関係論において、個別的労使関係で展開されている個別労使交渉・協議は、研究対象領域に含まれることはありませんでした。それは日本に限らず、世界的に見ても言えることでした。
なぜ、個別的労使関係における個別労使交渉・協議は、労使関係論の中で研究対象領域に含まれてこなかったのでしょうか。
それは、労使関係論の古典とされてきた、ウェッブ夫妻の『労働組合運動の歴史』(初版1894年)や『産業民主制論』(初版1897年)以来、労働組合とは「賃金労働者が、その労働生活の条件を維持または改善するための恒常的な団体である」※1とされてきたからです。そして、この労働組合の方法論は、集団的労使関係での「団体交渉」である、とされてきたからです。
したがって、労使関係とは、経営側と労働者側の労働力の集合的取り引きであるとされ、経営側と労働組合との間で行われる集団的労使関係での団体交渉もしくは労使協議という領域でのみ捉えられるもの、とされていたのです。

日本の労働力取引が個別的取引になっていることについて指摘したのは、管見の限り氏原(1954、1968)です。「本給は、団体交渉できめられているごとく見えて、そうだとはいえない。実は、ここの労働者と使用者の間で、あいたいの個別交渉で決められている」(氏原1968:216)としています。
しかし、個別的取引になっていることについて、「団体交渉を無にする。団体交渉をなくもがなのものにしてしまうことである」(氏原1968:216)と解釈して、「日本の本給の決定方法においては、賃金における比較の論理は、労働者の連帯性を強めるようにではなく、労働者をお互いに孤立させ、競争させ、そして全体として使用者に従属させるように働いている」(氏原1968:223-224)と見なしていました。
そのため、濱口・海老原(2020)のように、「労働条件の維持向上のために必要なのは、経営者と交渉することです。その際、一人の個人が単独で経営と対峙しても、多勢に無勢で要望が通らないことがほとんどでしょう。そこで、労働者が多数団結して、経営側と交渉する、という戦術がとられます。この団結して交渉を行なうために、労働組合が必要となります」(p.15) (ゴシックは筆者)、と説明されるのが、今日まで一般常識でした。
そのため、労使関係論において個別的労使関係が取り上げられ、個別労使交渉・協議が行われているかどうかの研究がされることはありませんでした。またそれは、そのような研究を推進することが、ゴシック化した一文のようなことになり、経営側の意図することに与することとなってしまい、ノンユニオニズムを推奨することになるとの不安を抱えていたからではないかと思われます。

しかし、石田(2003)が指摘するように、労働組合とは労働力の集団的販売組織であるはずなのに、労働力を「集団的」に販売していないのです。日本の労働組合は「集団的」に賃金交渉をおこなっているが、組合員が個別的に労働力を売り込む余地を開いているのです。だから、労働力を「集団的」に販売しきれていないのです。この販売価格における集団性と個別性の併存が現代日本の組織労働者の最も重要な特徴なのです。
しかも、1990年代以降、労使関係が個別的労使関係の領域にシフトしているにもかかわらず、その個別的労使関係での労使関係論が、まったくといってよいほど議論されてきませんでした。
それはなぜでしょうか。繰り返しになりますが、労働組合の中心的役割を、集団的労使関係での「団体交渉」と見なしてきたことと、それがために、ゴシック化した一文のような解釈に陥ってしまっていたことにありました。

たしかに、一人の労働者だけが経営と対峙しても、力を発揮することはできないことは、私も認めるところです。
しかし、そのような個別交渉を、経営側が全従業員と連続的に行うことを、それは多勢に無勢であり、従業員側が交渉力を発揮することはない、と言い切れるものだろうか、との疑問を禁じ得ません。例えるならば、柔道での対戦試合のように、従業員側が団体戦で挑んでいくのに対して、管理職は、それにたった1人で対戦受けするようなもので、労働者側が圧倒的に不利などと決めつけられるものではないはずです。
むしろ、管理職側こそ、成果主義的賃金・人事制度(人的資源管理)の登場によって、急遽個別労使交渉の当事者とされ、矢面に立たされてしまったことに困惑している、というのが本音ではないでしょうか。

梅崎・中嶋(2005)では、「被評価者からの批判を回避するために評価者は評価行動を変化させている」(p.40)とし、「<評価者負担>を高めるような人事制度改革では、改革の意図は達成できない」(p.49)としています。
また、経営側、特に人事管理部は、成果主義的賃金・人事制度へ安易に移行させてしまったことで、従業員に説明・説得する力のない管理職の発露という事態に直面し、苛立ちと反省を覚えているのではないでしょうか。
中嶋・松繁・梅崎(2004)では、成果主義を導入し、年齢給を廃止し、より個人の成果を反映する賃金制度へ移行した企業を取り上げ、評価者負担によって、逆に賃金格差を縮小させてしまい、賃金プロファイルを年功化させてしまった事実(「意図せざる結果」)を報告しています。

考えてみれば、四半期単位で、組織をあげて個別労使交渉・協議することの労力・時間を考えると、たった1つの労働組合と年1回だけ団体交渉することで、全従業員を律することができたこれまでの労使関係のメリットに、経営側はいまさらながら魅力を感じているのではないでしょうか。
そればかりか、経営側と労働組合との団体交渉で妥結した事柄を(事前の要求事項の取りまとめも含めて)、従業員側に説明・説得する責任を労働組合が負担してくれるという行為は、経営側に代え難いメリットであったはずです。
このように、労働力取引を個別取引にすることは、経営側にも危険を伴うものである、と私は考えます。
換言するならば、個別労使交渉・協議となっている目標管理・人事考課制度の各面談、期首面接⇒中間面接⇒期末面接⇒フィードバック面接に臨む、プレーイングマネージャーである管理職側の疲弊感は相当なものがあるはずです。そのことは、管理職になりたがらない一般社員が昨今多数いることが、見事に証拠立てています。

【注】
※1:シドニー・ウエッブ、ビアトリス・ウエッブ(1973) 荒畑寒村監訳、飯田鼎・高橋洸訳『労働組合運動の歴史(上巻)』日本労働協会、p.4

【参考文献】
石田光男(2003)『仕事の社会科学』ミネルヴァ書房
氏原正二郎(1954)『季刊労働法』第4巻3号9月号原典、氏原正二郎(1968)『日本の労使関係』東京大学出版会
梅崎修・中嶋哲夫(2005)「評価者負担が評価行動に与える影響―『人事マイクロデータ』と『アンケート調査』の統計分析」『日本労働研究雑誌』No.545/December
中嶋哲夫・松繁寿和・梅崎修(2004)「賃金と査定に見られる成果主義導入の効果―企業マイクロデータによる分析」『日本経済研究』第48号
濱口敬一郎・海老原嗣生(2020)『働き方改革の世界史』ちくま新書

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