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2021.09.21
田中正造翁と労働組合の対応力

世の中にまだ「公害」という言葉がなかった時代、日本最古の公害事件といわれる「足尾銅山鉱毒事件」が起こる。
足尾銅山鉱毒事件は、明治11年(1878年)頃に栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きたもので、記録上日本で初めての公害事件となる。


この時代にはまだ「公害」という言葉は生まれておらず、それだけに世間では企業活動による公害との認識は全くなかった頃の事件である。そのうえ、銅山の開発は政府が進める産業振興に欠かすことのできないものであったことなどから世間の関心を集めることもなく、結果として問題の解決を遅らせてしまうことになる。


足尾銅山はどのような公害を発生させてきたのか。銅山からは有害な煙や鉱毒ガスが排出され、周辺の環境に大きな悪影響をもたらしていた。


【舞台となった足尾銅山は、戦国時代の1550年に発見され、江戸時代初期の1610年から幕府直轄の鉱山として採掘が始まりました。掘り出された銅は、日光東照宮や増上寺などに使われていた。ピーク時には年間1200トンもの銅が採れ、町も繁栄します。
しかし、江戸時代の末期になると採掘量が減少。1871年に民営化された時の採掘量は、わずか150トンほどだったそうです。
1877年、実業家の古河市兵衛が経営に携わります。1881年以降は、探鉱技術が進んだため相次いで有力な鉱脈が発見され、政府がすすめる富国強兵策の後押しもあり、1900年代初頭には日本の銅産出量の40%を担うまでに成長しました。
鉱山の開発がすすむとともに製錬事業も発展、足尾銅山の樹木は次々と伐採されました。製錬工場から出る排水には金属イオンが含まれていて、足尾の山地を水源とする渡良瀬川に流れ込みます。
また製錬工場から排出される二酸化硫黄などを含む排煙は、酸性雨などの大気汚染を引き起こしました。近隣の山も含めて禿げ山になったことから、地盤が緩くなり、渡良瀬川下流域に土砂が堆積。洪水が起こりやすくなりました。
洪水が頻発すると広範囲に有害物質を含む水が広がり、土壌が汚染されて大きな被害を招くことになったのです。 】(「ホンシェルジュ」)


この公害事件は「100年公害」と言われるほど根深く、銅山は1973年に閉山されているにもかかわらず、驚くべきことに2011年に発生した東日本大震災後には渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でもまだその影響が及んでいる。


世間の関心を集めていなかったこの事件がなぜ有名になったのか。そこには被害を受けた農民の陳情運動と、栃木県出身の衆議院議員・田中正造翁が取り上げたことによる。


1878年に渡良瀬川の鮎が大量に死ぬ事件が起こる。当時は理由がわからず、最初に報じた朝野新聞【注・ちょうやしんぶん。1874年(明治7年)9月24日から1893年(明治26年)11月19日まで東京で発行された、民権派――明治時代の日本において行われた憲法制定、国会開設のための政治運動・社会運動を進めた人々――の政論新聞】も足尾銅山が原因だと断定はしていなかった。
渡良瀬川のアユの大量死から7年後の1885年、栃木県の下野新聞(しもつけしんぶん)が、「昨年から足尾の木が枯れはじめている」ことを報道する。さらに渡良瀬川から水を引いていた田んぼや、洪水によって汚染した土砂水が広がったことで、稲が枯れる被害も続出する。


しかもこれらの被害は、渡良瀬川流域だけでなく、江戸川流域、利根川流域にも拡大していく。
被害を受けた農民の人々は東京への陳情を再三繰り返すが、その人数は時に1万人を超え、1900年には警官隊と衝突して60人以上が逮捕される「川俣事件」【注・―かわまたじけん―とは、1900年2月13日、群馬県邑楽(おうら)郡佐貫村川俣(現明和町)で、政府に誓願するために出かける途中の農民と警官が衝突した事件。当時は兇徒聚集事件(きょうとしゅうしゅうじけん)と呼ばれた】が起きる。そして農民67名が逮捕され、そのうち51名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、全員不起訴という形で決着した。
一方、衆議院議員の田中正造翁は、1901年12月、日比谷において帝国議会開院式を終えて帰途に着く明治天皇の馬車の前に飛び出し、直訴状を持って直訴に及んだ。直訴状には、「足尾銅山鉱毒事件」で苦しむ人々の窮状が書かれていたが、警察に取り押さえられて失敗に終わってしまう。


しかし皮肉にも天皇に直訴をするという前代未聞の出来事から大きく注目され、「足尾銅山鉱毒事件」が世間に広く知られることになった。


田中正造翁は、何度も国会で質問し演説なども行ったが、政府が実効性のある対策をすることはなく、田中正造翁は1901年に議員を辞職する。
そしてこの公害事件は世間の関心を集めることもなく、当時は労働組合もなかったこともあり都合の悪い権力者などにより矮小化され闇に葬り去られそうになる。


しかし、事件は解決に向けて動き出す。1972年、総理府に中央公害審査委員会が発足する。ついに農民運動家といわれる板橋明治という人が、被害を受けた農民を結集して、足尾銅山を開発した古河鉱業株式会社を提訴する。約2年間の調停のすえ、「足尾銅山鉱毒事件」の加害者が古河鉱業株式会社であると認定され、補償金の支払いが命じられることになる。


以上が「足尾銅山公害事件」の概要だが、田中正造翁の取り組みを描いた城山三郎氏の著書「辛酸」、「騒動」の2冊が詳しい。


両著書には公害事件にとどまらず、私たちが社会的な問題に取り組むとき、心に刻んでおくべきことを示唆している。


それは田中正造翁の意志を引き継いで運動を進めてている青年に向かって、途中で辞退した弁護士が放った一言にある。
【田中さんは、ある意味で確かに立派だった。あれだけの純粋さは貴重だよ。だが、それだけに、どうしようもないところがあった。国家の悪を攻撃するのは結構、県の間違いを責めるものいい。けど、たとえ最初に間違いがあったとしても、いったん滑り出した機構というものは、行くところまで行くんだ。君ら百姓は、融通がきかぬ。だが、それ以上に、国家は融通がきかぬ。動き出したら、その動きを真実と思わせるまで動き続けてしまう。その力を計算できぬ田中さん的な生き方は悲劇でしかないんだ。】(「辛酸」より抜粋)


「たとえ最初に間違いがあったとしても、いったん滑り出した機構というものは、行くところまで行くんだ」という言葉は、それは国家権力だけに限らず、不祥事を起こした企業にも言えることである。しかし、それは一面の真実であったにしても、だからといって諦めては社会を進歩させることはできない。あらゆる組織に対して、改革を求めるときにはこれらの障壁が立ちふさがることを覚悟しておかなければならない。


もし自分が所属する企業が公害に限らず不祥事を起こしたときに、企業内労働組合としてどうするのか、企業が不利な立場になることを厭わず、社会的役割や正義を果たそうとするのか、あるいは頬かむりをして黙認してしまうのか。その真価が問われる時代を迎えている。

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