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2022.07.21
沖縄返還と朝ドラ

今からもう大分前になるが、日本列島を人間の体にたとえてこう言われていた。「小指の痛みを全身の痛みとして感じてほしい」。日本列島を人間の全身と考えた場合、小指は沖縄にあたるものとして、沖縄の痛みを日本全体の痛みとして感じてほしいという沖縄の切なる願いを表したものである。


沖縄の歴史を思い起こしてほしい。太平洋戦争末期、日本は連合国・米軍の本土上陸を阻止しようと沖縄を最前線にして防衛にあたった。
防衛にあたったといっても、沖縄に防衛を丸投げしたもので、沖縄ではそれだけ熾烈な戦いが繰り返された。沖縄は日本国民の犠牲を一身に背負され多くの一般市民が犠牲になった。
犠牲のありさまはさまざまなできごととして語られてきたが、多くの女学生が犠牲になった「ひめゆりの塔」は本土の国民にも多大な影響を与えた。筆者も学校での映画観賞で知り、涙ながらに観たことを思い出す。


日本の敗戦によって沖縄はアメリカの施政権の下(もと)におかれ、その施政権が日本に返還されたのが1972年(昭和47年)5月15日であった。この施政権の返還を指して「沖縄の日本復帰がなった」といわれるのである。今から50年前のことである。
太平洋戦争で日本防衛の人身御供になった沖縄戦からは77年、沖縄戦では実に島民の4分の1の人々が犠牲になったといわれる。日本本土が大空襲などもあったが無事でいられたのも、沖縄の犠牲の上にあったのである。


沖縄の犠牲がどのようなものであったのか、その一端を垣間見ると、
【沖縄戦で命を奪われた人は20万を上回り、一人ひとりの名前が「平和の礎(いしじ)」に刻み込まれている。糸満市摩文仁(まぶに)の丘に並ぶその石碑には「国籍を問わず」の考え方のもと、1万4千人余りの米軍兵士たちの名前もある▼志願であれ徴兵であれ、この地に送り込まれた若者たちである。歩兵として戦い、生き残った故ユージン・B・スレッジさんが『ペリリュー・沖縄戦記』に記録を残している。戦闘の恐怖に耐えるため、自分にこう言い聞かせていたという▼「これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ」。しかしすぐに、ごまかしようのない臭いに襲われる。戦死した敵味方の兵士たちの腐臭である▼放置された死体は、次の瞬間の自分の姿かもしれない。戦場で迫撃砲を撃ち続けたが、それは日本軍の標的になることも意味した。前進すれば銃弾が頭をかすめ、近くにいた仲間が倒れた。殺し殺される記録のなかには、米兵が銃で民間人の命を奪う場面も出てくる▼戦後のスレッジさんは戦場体験の重圧から、悪夢にうなされる日が続いた。「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」。そんな言葉は極限状態の記憶から吐き出されたものだろう。きょうは沖縄慰霊の日▼始めてしまった無謀な戦争を終わらせることができず、日本は本土決戦の時間稼ぎに沖縄を使った。失われた命にはそれぞれに名前があり、全うすべき人生があった。いかなる戦争でも同じである。】(天声人語「沖縄戦と米兵」朝日新聞デジタル 6月23日)


ちょうど、沖縄の日本復帰50年を記念するように、NHKの朝の連続ドラマで沖縄出身者の主役の一生を映した「ちむどんどん」が始まった。「ちむどんどん」とは、沖縄で「胸がわくわくする気持ち」を表す言葉だという。そのドラマの過程で、鶴見の沖縄タウンが登場する。
ドラマに登場する鶴見は、横浜市の一角を占め私が勤めていた会社への通勤途上にある。JRの一路線・鶴見線の終着駅が、民間の工場の構内にある珍しい線路だ。駅に沿って運河が流れており、利用する人に癒しを与えていたように思う。
また、鶴見の地名そのものが、川沿いにツルが見えたという「鶴見川」があり、町全体の地名が鶴見になったという。台風の時には鶴見川が何度も氾濫、その後、川筋を修正するなどの工事をして氾濫を防いできた。


鶴見川といえば、忘れられない思い出がある。私自身の勤め先は川崎にある工場だったので、鶴見川はJR線の通過箇所であった。その鶴見川が大氾濫を起こしたのが1958年の狩野川台風である。鶴見川流域では氾濫によって約2万戸が浸水、また、1966年の台風では約1万9千戸、1976年は約4千戸が浸水する被害が多発。鶴見川は当時、全国的に「暴れ川」として知られていたという。
台風一過の出勤時、鶴見川が氾濫したためJR線は鶴見まで、鶴見駅から川崎までは浸水個所を避けながらの徒歩で工場へ向かった。やっとの思いで国道にたどり着いてしばらく歩くと、会社の通勤バスが走っており、歩いている社員を拾っていた。自分も拾われて無事工場へ着くことができた。
その後、鶴見川は総合治水対策が行われ、上・中流での遊水地や雨水調整地の設置、源流域の広大な森林地帯の緑の保全などによって、今や暴れ川の異名を返上、その治水対策は全国から成功例として注目されている。


本稿では鶴見川の話をするのが主な目的ではないので、本題の沖縄の話に戻ることにする。
沖縄の本土復帰をめぐっては、必ずしも喜ばしいことばかりではないらしい。たとえば、現在アメリカ軍の基地のうち、沖縄にはその70%が存在している。日本の防衛が日米安全保障条約によって守られていると主張するなら、アメリカ軍基地の70%を沖縄に押し付けている現状について、「小指の痛みを全身の痛みに感じている」とは到底言うことはできない。


かつて民主党政権時代、時の鳩山首相は、米軍基地の県外移設(移設先の候補地は鹿児島県の徳之島を想定)を進めようとするが、すでに日米間で決まっていたロードマップの見直しにアメリカが難色を示すと同時に、新たな施設先すら見つからない状態であった。移設計画の早期実施を求めるオバマ大統領に理解を求めるものの、鳩山首相の想定通りに進まなかった。鳩山首相は5月に入ると、衆議院選で約束した「米軍基地の県外移設」の断念を表明、この政治手法が当時の野党である自民党をはじめメディアのパッシングともいうべき非難を浴び、2013年12月の総選挙で民主党は惨敗。再び自民党に政権が渡り普天間基地の移設計画が再び動き始め、辺野古に決まることになる。


しかしよくよく考えてみれば、沖縄にある普天間飛行場を沖縄以外(県外)に移したいという考えは、まさしく米軍基地の70%を押し付けられている沖縄の苦痛を、「小指の痛みを全身の痛み」として捉えて何とかしようとしたもので、稚拙な政治手法と非難されようとも、沖縄の痛みを和らげようとする誠実な政治判断だったのではないだろうか。
そして、相も変わらず「沖縄の問題」と矮小化して、「知らんぷり」を決め込む本土国民の私たちの至らなさを思い知らされるのである。

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