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2022.09.21
労働組合よ!加害者になるな

聞きなれない言葉だが、江戸時代の後期に「通俗道徳」という道徳観が確立された。聞きなれないものの、その意味するところは、私たちもよく知っている言葉なのである。


通俗道徳とは「人が人生で失敗したり貧困に陥ったりするのは、その人の努力が足りないからだ」という道徳観である。これは同時に、人は「勤勉に働くことや倹約をすることが重要」と考えることを意味する。
日本が明治維新の完成に向けて文明開化をすすめ近代化をはかるためには、それまでの江戸時代の価値観を大きく変えなければ成し遂げられないと考えたことから生まれたもののようだ。


この考えは日本国民の心の奥底に根付き、今日に至るまで「努力する人が報われる社会が大事だ」と考えられてきた。努力する人が報われる社会とは随分と綺麗ごとに聞こえるが、それは同時に「報われない人は努力しない人」、「努力しなければ報われなくて当然」という厳しく連帯感のない社会を意味する。
こうした道徳観は、自分が勝手に「努力していない人」と判断した他人に対して、「報われなくて当然」という差別意識を抱くことになる。そして差別意識は自己責任論に行き着く。
【貧乏なのは一生懸命に働かないからだ、いざというときに困るのは倹約していないからだ、家庭が不和なのは親孝行してこなかったからだ】(歴史学者・松沢裕作さん「朝日新聞デジタル」2021年11月3日)という風に。


心の中に芽生えた差別意識は、今もなお、差別に悩んでいる「ハンセン病療養」に顕著にみることができる。昔はハンセン病を「らい病」と呼び、治療や福祉を通じて克服することよりも、自分の住む所には住まわせないようにすることを優先した。その結果、特定の場所に療養所を設け、そこに強制的に隔離・収容してしまう政策がとられた。
これらの出来事を分析してみると、明らかに「罹病したのは本人の責任」、だから「病気の根絶」よりも「隔離」が目的になり、隔離することで自分とは関りがないと、自分自身を納得させるのだ。


こうした厄介な性質を持っているのが、すべてとは言わないが人間の心理のようだ。しかも世の中、努力が必ずしも報われるとは限らない。それなのになぜ「通俗道徳」のように努力と結果を結び付ける考え方が一般的になってしまったのだろうか。
昔から日本では、個人の責任論よりも村や町内に代表される共同体意識が非常に強かった。だから共同体意識の定型的な例として挙げられる「村八分」の制度も、単に意地悪を目的にしたものではなく、微妙に村の連帯を守ろうとする知恵とも言われる。
地域の共同体社会には普段は「十の付き合い」がある。出産・成人・結婚・病気・葬式・法事・火事・水害・普請・旅立ちの「十の付き合い」である。この中でどんなに絶交しても完全に絶交してはいけないものを二つ作った。「火事」と「葬式」である。本人が死んだときと、火事は全財産を消失させるから助け合う必要があるからと、この二つは絶交しない。残りの八つを絶交するから「村八分」というのである。村八分は封建的制度のように見えるが、人や家族を最終的な孤立から避ける手立てにもなっている。
村八分に限らず、日本社会にみられた共同体意識、それは個人で解決するには限界がある場合、隣人や村全体の力で解決しようとするもので非常に助かるのだが、一方では共同体を大事にしなければならないために普段の近所付き合いが重視され、そのための煩わしさがついて回ることになる。
功罪はあっても、このような助け合いや連帯の仕組みが壊れた時、人々は心の拠り所を失ってしまう。その拠り所をどこに求めるのか。


歴史的にみると、明治維新は江戸時代とは根本的に様変わりし、好むと好まざるとにかかわらず、人々は今までになかった競争的な市場経済の中に投げ出されてしまった。そのうえ、財政基盤が弱かったため、明治政府には助け合いの福祉を行き渡らせる力がない。それゆえに社会全体に他人を思いやる余裕が失われてしまったのだ。思いやりのなくなった社会では、「貧しいのはその人の努力が足りないせいだ」という通俗道徳の考え方が、人々の心の中に強く浸透していったのである。


助け合いや連帯が壊れた社会や集団では、すべてを「自己責任論」で片づける社会や集団になってしまうのだろうか。
【この1年半、コロナ禍の貧困の現場を取材していますが、ほとんどの人が「自分が悪い」と言います。雇い止めに遭うたびに寮から追い出されるため路上生活を繰り返す男性は「責任は僕にある」と言いました。「自分は能力がないから努力しないといけないんです」「そう思うことで、自分を鼓舞しているんです」、と。「自分が悪い。だから自分が頑張るべきなんだ」という考え方です。でも私は、頑張る前に、それは本当に自己責任なのかを考えるべきだと思っています。】ジャーナリストの藤田和恵さんはこう言う(「朝日新聞デジタル」21年11月3日)。
この指摘をどう受け止めるのか。その受け止め方によって社会が変わっていくのである。指摘を正しいと受け止めるなら、「自己責任論」が必ずしも正しい考え方とは言えないことがわかる。
どのような場合の「自己責任論」が正しく、どのような場合の「自己責任論」が間違えているのか。それを自分の心に問うてみなければならない。


例えば会社組織を例にとってみよう。会社に限らないが、組織であれば必ずそこには権力、あるいは立場による責任者としての権限が存在する。権力や権限には力がついて回るから、部下は従うことが当然と考える。
今の日本の企業社会は、成果主義や能力主義などの言葉が闊歩(かっぽ)し、雇用についても賃金水準などの処遇制度についても、個人の能力という「個人の責任」によって左右するものとの認識が一般的になっている。
会社の中で「個人の責任論」が蔓延すれば、賃金が低いと思っていることも、資格などの処遇全般に対する不満も、職場の上長とうまくいっていないことも、すべて個人の責任にされてしまうことになる。


その結果、何が起こるのか。
企業内の不祥事、それらすべてが該当者個人の責任にされたりすることが多くなるかもしれない。
しかも職場にはお互いに助け合うこと(共助)も、連帯もないとなれば、「自己責任論」で追い詰められて孤立する人が出てきてしまう。追い詰められた個人は、時に精神的苦痛に耐えかねてますます自分の殻に閉じこもり、あるいはまた、自ら命を絶つ道を選択するかもしれない。
そんな時に共助の手を差し伸べられるのが労働組合ではないだろうか。もし手を差し伸べないとしたら、精神的苦痛に耐えかねている従業員を労働組合も一緒になって追い詰めることになってしまう。


改めて自らに問おう。労働組合は「通俗道徳」の罠にはまってはならない。自己責任論ですべてを解決しようとする「通俗道徳」に押し流されそうになる職場や社会の中で、それらに警鐘を鳴らし、追い詰められた従業員に手を差し伸べることをいつも心しておかなければならない。

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