
今月は、社会心理学の世界に越境学習-田中(2021)と山岸(1999)を紹介し、同書らが提起する私たちが身につけるべき「社会的知性」と「開かれた信頼社会」を構築する、組合活動について考えたいと思います。
まず田中(2021)では、「日本人は自発的に集団主義的に行動しているわけではない。すなわち、集団主義が担保する社会制度が存在しないところでは、日本人はアメリカ人以上に個人主義的に行動する」(p.31)というのです。
その原因や背景は、「人と人との関係のあり方を社会制度(終身雇用や年功序列、企業内福祉制度など:西尾注記)に頼っていたために、日本人は昔から他者を信頼するトレーニングを受けてこなかった。その結果、既存の社会制度が消滅しつつある今、日本人は他者との関係をどうしてよいのか困っている状態」(p.34)と述べています。
つまり、「日本人は何らかの社会制度に頼って生活する国民」(p.35)なので、「助け合いがこうした集団のルールに則って成り立ってのだとしたら、集団のルールがなくなれば助け合いも、もちろんなくなってしまう」(p.35)、というのです。
その証拠として、2019年に行われた第7回「世界価値観調査」を取り上げ、「社会の多くの人は信頼できる」と答えた日本人は33.7%で、アメリカの37%よりも低いと紹介しています。しかも、1995年から減少の一途をたどって(39.8%→39.6%→36.6%→35.9%→33.7%)いる、としています。そればかりか、信頼と社会参加に関して、イギリスのレガダム研究所が発表するソーシャル・キャピタル度(2022年)を見ても、日本は167ヵ国中140位に沈んでいるとしています。
まとめると、田中(2021)の主張は、「多くの日本人は社会なるもの、あるいは公共への意識が低下しており、そのせいで社会とのつながりが保てなくなり、社会参加への意欲も失われている...いずれにせよ『社会』との関係が希薄になっている日本人は、その社会の構成員である他の日本人との関係性も薄れている可能性が高い。他者とのつながりがなくなれば、その他者への親近感も薄れ、助けたいとは思わなくなるだろう」(p.70)。また、「他者に頼り、依存することを『恥』と考える社会的な風潮」(p.80)と、「どんなに困っていても他人様に迷惑をかけてはいけないと刷り込まれた教育が潜在意識として働き、助けを求めるのが億劫になってしまう」(p.82)、と警鐘を鳴らしています。
以上の田中(2021)の指摘の基になっているのが山岸(1999)の主張です。これまでの日本社会では、関係の安定性がそのなかで暮らす人々に「安心」を提供しており、わざわざ相手が信頼できる人間かどうかを考慮する必要が小さかった(p.ⅱ)からだ、と述べています。言い換えると、一度大企業に就職してしまえば定年まで雇用がほぼ保証され、いつまでも継続することが保証された「コミットメント関係」の中にいることで安心が提供されていたのが日本社会の特徴(pp.ⅱ-ⅲ)、だったというのです。
山岸(1999)は、これまで終身雇用制が確立している企業のなかで、お互いが利害の対立をはらみながら、労使の対立が破壊的な結果をもたらさないように労使の協調が維持されているのは(p.83)、このような集団主義による安心が提供されてきたからだ、とも述べています。だから、現在の日本社会を特徴づけているのは、実は「信頼の崩壊」ではなく「安心の崩壊」なのだ(p.22)、との主張です。
そればかりか、山岸(1999)は、日本人の集団主義文化は、個々の日本人のこころの内部に存在するというよりも、むしろ日本社会の「構造」の中に存在していること。つまり、人々が集団の利益に反するような行動をするのを妨げるような社会の仕組み、とくに相互監視と相互規制のしくみが存在していた(p.45)。したがって、日常生活のなかでわれわれの行動を規制しているさまざまな社会のしくみを取り去ってしまい、顔を合わせてお互いの行動をほめあったりけなしたりする機会さえ取り去ってしまえば、日本人はアメリカ人に比べても、集団主義的に行動しなくなってしまう(p.49)、と述べています。
日本社会における社会的不確実性の小ささは、そのかなりの部分が、さまざまなフォーマル、インフォーマルな規則を通しての行動に対する拘束と、コミットメント関係によって生み出されています(p.82)。そのため、動機の問題として日本型の集団主義を捉えるのは間違いであり、日本型の集団主義は、集団への自発的なかかわり合いが、結局は自己自身の福利をもたらすことを知ったうえで、組織的活動にコミットする傾向をいうとしています(p.83)。
日本文化を特徴づけているとされる集団主義文化の核は、コミットメント関係の形成を通しての安心の提供にある(p.82)ため、かつて「モーレツ・サラリーマン」が生まれたのは、「会社のために自分の生活や家庭の生活を犠牲にして働くのは、自分の生活や家庭の生活よりも会社の利益のほうが重要だと思っているからではない。そうではなく、そうすることが自分の将来にとって役に立つと思っているから」(p.210)だというのです。
さらに、山岸(1999)は、日本人はアメリカ人より他者一般を信頼する傾向が弱いという事実を示します。統計数理研究所が日本人とアメリカ人に対して行った質問紙調査を取り上げ、「たいていの人は信頼できますか、それとも用心するにこしたことはないと思いますか」という質問に、アメリカ人の47%が「たいていの人は信頼できる」と回答しているのに、日本人は26%にすぎない。日本人はアメリカ人はより、ずっと、他者一般に対する信頼感が低い(pp.26-27)、というのです。
また、日本人が低信頼者である証拠として、「他人は、スキがあればあなたを利用しようとしていると思いますか、それともそんなことはないと思いますか」という質問に対しても、「そんなことはない」と答えたアメリカ人は62%なのに、日本人は53%。「たいていの人は、他人に役に立とうとしていると思いますか、それとも、自分のことだけに気を配っているとおもいますか」という質問には、「他人に役に立とうとしている」という回答したアメリカ人は47%に対して、日本人は19%にすぎない(pp.26-27)、というデータを示しています。
「知らない他人に対する信頼を必要とする社会的ジレンマ※1場面での協力傾向も、アメリカ人のほうが、高いことが示された」(p.34)という心理実験の結果からも、日本人の集団主義文化が一人一人の日本人のもつ―集団の利益を個人の利益よりも優先するという―こころの性質を意味するという考え方を否定するもの(p.39)になっている、と報告しています。
そして今日、日本社会においてコミットメント関係の維持のために支払う機会費用が一般的に増大しつつあるということは、やくざ型(恋人型の愛着によって維持されるものとは明らかに違う不確実性を避けるため)のコミットメント関係が、非効率を生み出す桎梏となりつつあることを意味する(p.87)として、「社会的知性」の獲得と「開かれた信頼社会」の構築の必要性を提起しています。
山岸(1999)は信頼関係を測定するために、一般的信頼の測定設問【1.ほとんどの人は基本的に正直である。2.私は人を信頼するほうである。3.ほとんどの人は基本的に善良で親切である。4.ほとんどの人は他人を信頼している。5.ほとんどの人は信用できる】(pp.94-95)を用います。
さらに、高い点を示す高信頼者は、日本人の実験参加者でも低信頼者よりも社会的ジレンマ状況で自分勝手な行動をとる傾向は小さい(p.97)し、高信頼者のほうが低信頼者よりも、まわりの人たちが信頼できる人間かどうかに敏感に気を配っている(p.123)ので、高信頼者は他人と積極的に協力関係を築き上げていこうと考える人たち(p.136)、だとしています。
逆に、他人は信頼できないと思っている人は、多くの場合、他人と協力していくことが重要でないと考えている人たち(p.138)ですから、社会的な楽観主義者は社会的知性を身につける機会に積極的に向かっていくため、次第に社会的知性が身についていきます(p.140)が、社会的な悲観主義者は社会的知性を身につける機会を避けるため、社会的知性を発達させることが困難で、そのため他人と関係でひどい目に合う可能性がいつまでもつきまとっています(pp.140-141)として、「社会的知性」の獲得と「開かれた信頼社会」の構築方法こそが、現代日本社会の問われている課題であるとしています。むしろ、集団主義的な組織原理から、より開かれた組織原理へ向かう日本社会の変革を進めるためには、一般的信頼の醸成が不可欠である(p.208)というのです。
そして、現在の課題日本の直面する問題の多くは、国民の経済生活から社会的不確実性を取り除くことができれば解決できる問題だという点で、レモン市場問題※2と同じ種類の問題だと考えることができる(p.238)、としています。
このような問題提起に、山岸(1999)は解決策として、ボランタリーな組織形態は、社会的不確実性問題の解決にとって最も望ましい解決を与えるものだ(p.244)と述べ、公的活動に関する情報開示と意思決定過程の透明化は、社会的不確実性を低下させ、現在の日本社会が必要としている安心を提供するために最も必要とされる社会的装置です(p.245)、と結論づけしています。しかし、山岸(1999)が結論づける「ボランタリーな組織の必要性」と「公的活動に関する情報開示と意思決定過程の透明化する社会的装置」がどのようなものは、明らかではありません。
そこで、旧来の安心社会(終身雇用制と年功序列を軸とした雇用関係)の崩壊は確実で、かつそこへの回帰は絶対あり得ないとするならば、この山岸(1999)の結論を、企業内の労使関係にあてはめて考えるとき、ならば現在、終身雇用や年功序列制が崩壊してどのような雇用関係が生まれているのか、また、新たに生まれている雇用関係のどこに安定性や安心感があるのかを探ることがなされるべきことではないでしょうか。
そのうえで、「経営活動に関する情報開示と意思決定過程の透明化する社会的装置」を、従来の集団的労使関係での労使協議会制度に、それを託すことができないとすれば、新たに、どのような労使関係において再構築するのか、考えなければなりません。
だとすれば、ボランタリーな組織としての労働組合には変わりはありませんが、旧来の安心社会(終身雇用制と年功序列を軸とした雇用関係)の崩壊によって拡大している個別的労使関係にて、「経営活動に関する情報開示と意思決定過程の透明化する社会的装置」の設置を考えることが、最も妥当な方法ではないでしょうか。
そして、その社会的装置とは、目標管理・人事考課制度の各面談での個別労使交渉・協議力(発言力)の発揮から、職場コミュニティでの心理的安全性の確保(職場懇談会などの個別的労使関係での分権的組合活動)までの領域において、「社会的知性」と「開かれた信頼社会」を構築するための労使コミュニケーションなのだ、と言えるのではないでしょうか。
注
※1 社会的ジレンマとは、お互いに協力し合えばみなが利益を得ることができるのに、それぞれの人間が自分の利益だけを考えて行動すると、だれもが不利益をこうむってしまう状況のこと(山岸1999:p.28)です。
※2 レモン市場問題とは、アメリカの俗語で、隠された故障のある中古市場のことで、中古市場では売り手と買い手との間に情報のギャップ(情報の非対称性)が存在し、この情報ギャップは消費者とディーラーの両方にとって困った問題(買い手は売り手の言葉をそのまま信じませんし、故障車の可能性を考慮した上で値段交渉する。そのため、ディーラーは故障のない「買い得」な車で、仕入れ値が高いことを消費者にわかってもらえず、売り手にとっても正直な商売ができなくなる)という不信がもたらす問題です。中古車市場に限らず、われわれの日常生活のさまざまな場面で、自分の身と財産を守るために膨大な時間やエネルギーがかかり、近代的な効率の良いビジネスが維持できなくなってしまう(山岸1999:pp.56-58)ことから、信頼社会の必要性を述べるものです。
参考文献
田中世紀(2021)『やさしくない国ニッポンの政治経済学―日本人は困っている人を助けないのか』講談社選書メチェ
山岸俊男(1999)『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』中公新書