2020.06.21
【組織開発】人が集うことの意味

組合活動はこれまで、「集まってなんぼ」だった。

定期大会に始まり、執行委員会、労使協議、職場集会、レクリエーションと何かしらの目的で人が集い続けることで、集った人間にとっては、労働組合という組織が存在しているという実感を味わうことができた。

そして今年、世界中に新型コロナウイルスの猛威が振るい、「人が集う」という営みに大幅な制約が課され、「なぜ集まらねばならぬのか」「集まることでしか生み出せない価値は何か」という問いが、一つ一つの営みに容赦なく投げかけられた。
そして、その説明のつかぬものから順にオンラインへと切り替えられ、ほとんどの活動が対面で行われなくなった。

新型コロナウイルスの影響はピークと比べかなり収束したように見える。
しかし、では元の活動を再開しましょう、となるかというとそうはなっていない。

それは、念のため活動を控えておこう、という意図もあるだろうが、それ以上に、これまでのようなやり方で活動を再開する根拠や価値を、組合員に対し自信をもって説明することに苦慮している表れでもあると感じている。
言い方を変えれば、「人が集う」という行為に働いていた慣性が止まり、いかにそれが労力やコストのかかっていた行為だったか、ということに気付いてしまったということだろう。

「役割なんだから集まって当たり前」
と各地域から集結する役員に対して、ねぎらいの気持ちは薄れていなかったか。

「定例でやるもんだから」
と一つ一つの集まりに対して惰性で臨んでいなかったか。

「いつも顔を合わせているから」
と、組合役員の些細な変化に鈍感になっていなかったか。

"Stay home"と叫ばれたこの期間に、画面上では相手の意図を汲み取ることや心の交流がいかに難しいのかということを思い知った反面、コロナ前の人との向き合い方が、忙しさに感けて御座なりになっていたことを謙虚に捉え直した、という声を多くの組合役員から聞く。

意味は後からついてくる

「人が集う」という営みそれ自体には、実は何の意味もない。
集まった人が、事後的に、自覚的に、意味づけをしていくだけだ。
そのように私は考えている。

集った一人ひとりが
「自分の想いをしっかりと受け止めてくれた」
「他愛のない話をして心がほぐれた」
「自分の考えを余すところなく伝えることができた」
そういった充足感をそれぞれの職場に持ち帰ったときに初めて、組合活動の意味が生まれる。
そして労働組合に所属している、ということに愛着を感じるのだと思う。

労働組合活動の目的それ自体には、組合員、組合役員同士のコミュニケーションは含まれていない。
そのため、コミュニケーションの機会がなくとも表面的には目的を果たしているという状態が成立しうる。
けれども、労働組合に限らずどんな組織であっても、所属するメンバーが顔を合わせ、言葉を交わし、心を通わせるという
プロセスを踏むことなしに、表面的な目的達成はそのメンバーにとって意味を持たない。
自分が何かしらの形で関与したという実感の持てるものが結実して初めて、人はそれに意味を見出す。
それが我々人間の性であり、そんな人間の集合体である組織の、避けられない前提条件である。

組合役員が自らのコミュニケーションで、組合活動に「意味づけ」をしていく

これからも以前のように自由には組合役員・組合員との対面交流ができず、しばらくは少人数、あるいはオンラインの併用、という状態が続くだろう。

しかし、対面でコミュニケーションを取ることがいかに贅沢なことか、と今日感じた有難みは、日常に戻ればいずれ風化してしまう。

まだ不自由さが残る今、組合活動は、
「別に対面じゃなくてもいいよね」なのか「やっぱり顔を合わせた方がいいよね」なのかの分岐点に立っている。

音声だけ、あるいは画面越しであっても、「やっぱり人と話すのっていいな」と相手に思わせるコミュニケーションを、組合活動を通じてどれほど生み出せるか。
一度心理的な距離が離れた組合員を再び引き戻すために組合役員がこれから費やす労力を想像すると、途方もないことに思える。
組合役員が一つ一つ積み上げていく「意味づけ」の作業を、そしてそれを持続する意欲を、私も一緒に頭を悩ませながら支援していきたいと思っている。

ひょっとしたらコロナ前よりも、集まることの意義があると感じる場が増えていくのではないか、と密かに楽しみにしている。

竹内 進j.union株式会社 活動促進本部 西日本事業部

好きだけど自分から最も遠い言葉は「虚心坦懐」です。

« 前回の記事 次回の記事 »